昭和五十四年六月十三日 朝の御理解                
                                                                                                         御理解 第六十九節                                「信心は容易いものぢゃが皆氏子からむつかしうする三年五年   の信心ではまだ迷い易い十年の信心が続いたら我ながら喜ん   で我心をまつれ日は年月の始めぢゃによって其日其日のおか   げを受けて行けば立行かうが容易う信心をするがよいぞ」                                                                                 「容易う信心をするがよい」、まあ、言うならば、気分がよいとき、拝みたい時、お参りしたい時、これなら容易いですね。けれども、それぢゃないと思うですね。
 我が心が十年も続いたらまつれれる。拝めれるようになる信心なんです。なら、それを容易いとは思われないけれども、容易くするためには、教祖がここで仰るのは、〔真の信心〕と、いうことだと思うですね。
 真の信心をめざすと、信心は容易うなるです。おかげを頂かなければならん、という信心はむつかしいです。それも、んなら、自分の都合のよかときだけ、気分のよか時だけ参る、というような容易い、という信心ではない、ね。ですから、信心を容易うするためには、言うならばその眼目と言うか、言うなら、真の信心をめだす、ということ。ね。真の信心を目指すということになれば、容易いというよりも、いつもここで言われるように、信心が有り難うなってくる、楽しうなってくる。修行もまた有り難いということになってくる。天地との交流が出来てくるようになる。リズムに乗って信心生活ができる。もし、そのリズムが聞こえてこなくなったらむつかしい。けれども、いつも、絶えずリズムを感じれるような信心、容易い、ね。だから、真の信心は容易いものぢゃ、と。氏子がむつかしうする、と言うのは、只、信心とは御利益を受けること、おかげを受けることだと思うておるから、むつかしいんだ、と、いう事になるのぢゃないでしょうか。ね。
 どうでも一つ、真の信心がわかりたい、という信心にならんと、信心がむつかしうなる、ね。
 もう、信心にはね、やはり、いそいそとしたものがなからにゃいけんません。ね。朝のお参りでも、それこそ心が何とはなしに、はずんでくるような、ね、今日はどういう御教えを頂けるだろうか、と、思うただけでも心がはずんでくる、といったような信心、ね。
 容易い、と言うよりも楽しうなってくるでしょう、ね。それには、教えを頂くと言うことは、その教えは、言うなら真の信心が説いてある。人間が本当に幸せになるために信心して、ご神徳を受けるということが説いてある。その、ご神徳が身についていくということがね、段々有り難うなる。成る程、十年もしたら我ながら我が心がまつれる、我ながら我心が拝めれるようになることでしょう、と、私は思います。
 「信心は容易い。」、ね。どうでも一つ、御利益信心から真の信心に切り換えさせてもらわなければ、信心がむつかしくなる。ね。
 「そうにゃ、お参りしたばってん、とうとうおかげ頂ききらんやった。」ということになるんです、ね。「おかげ頂きゃ有難いけれども、ね、ずいぶん朝参りも続いたけれども、おかげ頂ききらんやった。」と、言うことになる。
 朝参りを続けておるうちに、真の信心がわかり、御神徳とはこれだとわからせてもらう、ね。
 昨日、美登里会でお話しした事でしたけれども、真の信心とは、どういうことを目指さなければならないか、と、信心の手篤いのが真の信者ぢゃ、と、こう仰るですね。信心が手篤いのが真の信者ぢゃ、と。
 私は、ここへ座らせて頂いて、そこから久富繁雄さんの奥さんがそれこそ、いそいそとしてお参りして見えて、あそこへ座られるのを見とったら、何か胸がジーンとするような、何かありがたいものを感じたんです。
 もう、うちには主人が毎朝参りよるけんで、私はそげん毎日参らんでん、といったようなものぢゃなくてね。もう、久富さんは自転車で見える、奥さんは、おそらく久富さん所の車に便乗して見えたわけでしょうけれども、ね。夫婦の者が力を合わせて、しかもいそいそとおまいりが出来る。特別にこれ、と、取り立ててお願いせんならんこともないのだけれども、とにかく、言わば信心有難うなりたのしうなって来よんなさる姿ぢゃないだろうか。そんな風なものを感じましたですね。
 うちには、もう、家内がずっと参りよるけんで、と、ね。一家の者がそれこそ信心が容易うなっていくような、おかげを頂きたいですね。ね。
 信心が段々手篤うなってくる。「信心の手篤いのが真の信者ぢゃ」と。手篤い信心をさせてもらう、ね。どうも、その信心と言うか、日本人のその信心のイメージといったようなものがね、悲しい時の神頼み、と言うのが信心のように思ってるわけです。
 それで、おかげ頂いて御願成就がすんだら、それでおしまい、も、これは大変な大まちがいないんです。お道の信心はどこまでも、ね、昨日からも頂きますように、一生が修行と仰るんです、ね。だから、一生が修行ということが、何かきついとか、むつかしいとかぢゃなくて、とにかく、もう、いよいよもって楽しうなり、有難うなっていくという修行だから、ね。これが、あの世にも持っていけれるんだな、これが、この世にも残しておけれるんだな、という実感がわいてくればくるほど、も、限りなくそういう信心の力を頂きたい、という願いがおこるばっかり、ね。
 〔神様へ一心を向ける〕ということは、素晴らしい事ですよ、ね。
その一心もです、真の信心をめざさしてもらう、ね。
 〔信心が手篤い。〕、私も、毎日十五年間も続けて参りよる、から、〔信心が手篤い〕、ということでもない。〔信心が手篤い〕と言うのは、神様に言いわけにならぬ言いわけをすることがない信心。
神様の前に言いわけどん、せんですむ信心。「昨日、あなたお参りしょうと思ったばってん、ちょっと人が来たもんですから。」そりゃいかにも、言いわけのようにあるけれどもね、これは言いわけにはならんです。信心には、ね。「この頃から、歯のお医者さんに行って歯ば取ってしもとる。だから、あんまり見苦しいけんでお参りが出けん、と、こう言われる。」、して、私はその人に言いました。「あんた、歯でばし歩いてくるの。」、ち、言いました。
(笑い) こういうのは、言いわけにならない言いわけなんです、ね。まあ、言いわけにならん言いわけちゃ、たくさんありますよ。もうこれは信心には、どうしても一途と言うのがいるんです、一途なものがいるです。ね。
 それがね、真の信心をめざすとね。それが出来るようになるんです。楽しうなってくるです。一日でん欠けたらバカらしうなってくるです、ね。それでも、やはり、ね、身体が悪かったり、いろいろ神様からごらんになれば、それこそ、言いわけにならんでも、ですね。言いわけをせなんごたる時には、言いわけをせずにです、自分の信心の不行届きとして、お詫びするより他にない、ね。
 信心に言いわけはできない。それを言いわけにもならない言いわけをして、言うなら、神から離れる氏子がある。もう、離れてしまうわけぢゃないけれども、神様から離れる事になるです。ね。そういう信心をね、めざして頂くかぎり、信心はいよいよ、それこそ、一年一年有難うなっていくのであり、信心が有難うなり楽しうなりね。〔それこそ十年もたったら、わが心をまつれ〕と、おっしゃるようなおかげが頂かれるようになると思うでう、ね。
 信心は容易いもの、と、こう仰る。勿論、教祖の仰ることですから、真の信心ということでしょう。だからここでわけると、真の信心は容易いが、御利益信心は難かしい、と、いうことになるのぢゃないでしょうか。、 誰だって始めの間は、やはり、ね、御縁を頂くというのは、そこに、難儀を感じたり、困った事があったり、そこから、入信する人が多いですけれども、ここでは、話を聞いて助かる、と言われるのですから、話を聞いていくうちに、「あヽこれは、真の信心を身につけなければ、ね、もう、人間この世に生を受けたという事は、言うなら、真の信心をさせて頂くために、生まれてきた。」、と言うていいんです。
 この世には、私共が本気で魂を清めに生まれてきたんです、ね。
「その魂を清める。」、ということがです、御利益信心ぢゃ清まらんです。真の信心をめざさなければできません、ね。真の信心をめざさせてもらう、ね、そこから容易うなる、ということはね、楽になるということぢゃないです。もう、自分の都合のよか時だけお参りするとぢゃけんで、信心ちゃ容易いものですばい、ち、言うととはちがうわけ。信心が容易うなる、ということは、信心の体得ができてくる、だから、信心がたのしうなってくる、有難うなってくる、ね、そこにおかげが伴のうてくる、勿体ない、ということにもなってくる、ね。自分の心の中に、一段一段、信心の位がついていくものを、感じさせてもらえるようになるから、信心はいよいよもって有難い。「いや、いよいよ信心は容易いものぢゃが。」、という事になるのぢゃないでしょうか。
今日は、いつもの表現とは少しちがいますけれども、とにかく、ご利益信心は、まずむつかしい、と思って下さればいい。ね、ご利益を受けるためには、そりゃ一生懸命でお参りもする。一生懸命の時にはね、大してむつかしい事ぢゃないです。ね、けれども、おかげを受けると、その一生懸命が欠けてくる。一生懸命が欠けてくるとむつかしうなる。「真の信心は楽しうなって有難うなって、それこそ愉快にまでなっていける。」、と言うのが真の信心だと。
 私は合楽理念は、結局は真の信心を説いておるんだとおもうです。
ね。もう、いよいよ合楽理念のマスター、信心は容易いもの、ね、と、いうよりも、むしろ楽しいもの有難いもの、愉快なもの、と、いうところまで高めていきたいですね。
                「 どうぞ 」                  私は、昨日からずーっと身体が悪くて、足のこの坐りダコが化膿し出したわけ、それで体全体に熱があるような感じで、昨日も、美登里会でしたけど、一生懸命お話をして退がる時には体が楽になってました。それから、体がどうも悪いから風呂に入らずに、すぐ寝ませて頂こうとしたら、もう、途端に熱が出だしてから、もう今朝までずうっと氷枕で冷やし通しでした。そして、ここで出て参りましてから、ご神前に出らせて頂いてもう一心不乱ですからね。拝む時にはおかげで一心不乱、おかげでよくなったのぢゃないか、と思うくらいに体がスッキリとしとります。
 だからね、信心ちゃ確かに楽しいものです。 だから、んなら、「今日は熱があるけんで御無礼します。」と、例えば言へば言うてもよいけども、これは言いわけにならぬ言いわけだと思うです。
 そこを、もう一押し元気な心で神様へ向かう時にです、おかげで熱も下がっとるぢゃないだろうか、という感じもするのですけれどもね、何と言うても一心をね、それこそ真の信心に貫かせて頂かねばいけません。
                「 どうぞ 」